【三菱】500(A10/11型)

コルト、そしてギャランへと続いていく系譜の先祖である三菱・500は、国民車構想に基づいた大衆車を目指して製作された小型車。

三菱にとっては初の自社制作乗用車でした。

 

 

 


【500(A10/11型)の歴史】

 

 

通産省が1955年に発表した「国民車構想」。大人4人が乗車可能で、350~500ccのエンジンを搭載して低燃費、最高速度100km/h以上が可能で、重大な修理なしに10万kmの走行が可能なこと。これを月産2000台、販売価格は25万円前後であることが、「国民車」とされました。
当時の日本の自動車技術では、この国民車の実現は厳しいものでしたが、果敢に挑戦したメーカーも少なくなく、その1つがスバル・360(K111/212型)を実現した富士重工であり、また1つがこの500を開発した三菱(当時:新三菱重工業)でした。

当時は先進的だったフルモノコック構造を採用したRRレイアウトで、前後ともトレーリングアーム式のサスペンションを用いた四輪独立懸架。4ストロークの「NE19型(空冷直列2気筒OHV・493cc)」を搭載し、最高出力は21ps。トランスミッションは3速MTのみで、最高速度は90km/hでした。

 
 
 
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全長3140mm×全幅1390mm×全高1380mmのボディサイズで、定員は4人。3ボックススタイルの2ドアセダンのみがラインナップされました。全体的に丸みを帯びたボディに、丸型2灯式ヘッドランプを備え、初期型ではテールランプは中央に1個のみ。ウインカーはBピラーに取り付けられました。

1960年4月に発売された際の販売価格は39万円。国民車構想の25万円からは程遠い数字ですが、1958年に発売されていたスバル・360の価格が42.5万円だったことを考えれば、39万円という価格は十分にリーズナブルでした。
発売後の1年間で7800台余りを販売し、そこそこの実績を収めました。

1961年8月には、販売拡大を目指して「スーパーDX」を追加。500の車名はそのままに、「NE35A型(空冷直列2気筒・594cc)」を搭載し、25psを発揮。乗車定員は5人となり、内外装のデザイン変更も実施。足回りの改良や加速性能を向上させるなどの改良を実施しました。

当時の小型車と言えば、ダットサン・ブルーバード(初代310型)とトヨペット・コロナ(初代T10型)。1961年にはトヨタ・パブリカ(初代P10/20型)も発売される中、軽自動車と大きな差のない三菱・500は競争力不足であり、1962年6月に後継車のコルト600(A13型)が登場し、生産終了となりました。

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その後コルトシリーズは排気量拡大やバリエーション拡大を行い、1969年にはコルトギャラン(初代A50型)に派生。三菱の主力セダンとしての道を歩み始めるのでした。

三菱が初めて自社で開発した乗用車は、現在ではボディサイズも排気量も軽自動車枠に入る程小さいクルマ。
決して成功を収めたわけではありませんでしたが、乗用車メーカーとしての貴重な第1歩を踏み出しました。

 

 

 

【諸元】

 

 

三菱・500(A10/11型)

全長×全幅×全高 3140mm×1390mm×1380mm
ホイールベース 2065mm
乗車定員 4/5名
エンジン NE19型 空冷直列2気筒OHV 493cc(21ps/5000rpm)
NE35A型 空冷直列2気筒OHV 594cc(25ps/4800rpm)
駆動方式 RR
トランスミッション 3MT
タイヤサイズ 5.20-12 2P